冬が近づくと越後の海はだんだん荒れて来ますが、今日は冬荒の前の静けさとでも申しますか、海上は実に静かに凪いで波一つ立っていません。而も晩秋の陽が小波に映って何とも云えない美しさであります。
四五百石もあろうか、かなり大きな船が1艘沖に見えます。眞白い帆に秋の陽を一枚にうけて膨らみに膨らんだ帆は、鞭で打つように舷側を波濤に叩かせながら広々とした海岸線に沿うて一直線に進んで行きます。
左手には刈羽、頚城両郡の山々が陽を浴びて、明るいところと影になったところをはっきり見せて、幾重にも重なり合って狐色に永く永く続いております。
よく見るとその船は、越後新潟港の米商人清定の持ち船、住吉丸であります。
秋の収穫がすみますと、越後蒲原平原の米は、信濃川を下って新潟に集荷されます。今しもその米を満載して住吉丸は越前の国敦賀港を目指して航海を続けているのであります。
「そうれ面舵だあっ、取舵いっ!」と、沖に眼を注いでいる水先案内が潮の流れ、風の方向などを加減してかける号令に従って船頭たちが楫を捩じり、帆を操っています。
一攫千金を夢みる清定が、冬近い日本海のいつ襲って来るか知れない荒波を承知で、幾百千俵の米を積んで行くのであります。
快晴に恵まれて、順風を帆一杯に孕んだ船も積荷が重いので兎角船脚は鈍かったのですが、今夜の船繋りは直江津と定めて、今日昼過ぎから大分時が過ぎた頃、船は柏崎の鯨波沖合近くを走っていました。
どうせ仕事は運否天賦の一六勝負、難航はもとより覚悟の前でありますが、それがこうも運良く万事順調に運ぼうとは誰もよきしたでありましょうか、清定はすっかり上機嫌で有卦に入り、どっかりと親柱の根本に大胡坐を組んで落着きはらった態度で、顔面一杯に北叟笑を浮かべながら、勇み立って仕事をしている乗組みの若者たちを眺めています。
清定はかれこれ五十年輩の男であります。見るからに精悍そのもを思わせる幅広く角張った顎の赧顔、どつしりと恰幅のいい体つき、時々光る鋭い眼の色、どう見ても商人とは見えない面構えであります。態度や所作のどこにも町人としての腰の低さなど微塵も感じられません。寧ろ抜け荷冗い船の親方と云った剛腹さの見える男でありました。
彼は今、心中何を思うやら、船尾に翻る「住吉丸」と大きく染抜いた幟を満足そうに眺めています。船は愈々進み居間の福浦を過ぎ米山三里の沖合いにさしかかった時でありました。
急に船脚が落ちました。清定が「おやツ」と思って空を見上げますと、今までの快晴は何処へやら、鉛色に翳って吹いていた順風も、はたと止み、海上は薄鼡色霧が一杯に立ち込め、舷にあたる波もいつの間にか強い響きを伝えています。将にあの恐ろしい旋風の前ぶれであります。
天候の急変に驚いた船員たちは、今夜の泊り地直江津へ少しでも近づこうと大急ぎで櫓下す用意にひしめき合いました。互いに怒鳴り合う声も騒々しい位です。
「ちえつ」と清定が舌打ちをした時であります。次第に濃くなって来た霧が周囲一様に咫尺も辨ぜぬ迄に立ちこめると同時に、海面が白く泡立ってさえ来ました。帆綱を弛めるひまもあらばこそ、陸地の方から一陣の風が「さあっ」と襲いかかって来ました。
その瞬間、何処から降って来たのか一箇の鉢が飛んで来て、かちりと音を立てて清定の膝頭僅かところに落ちました。
船の親柱に凭りかかって、大胡坐を組んでいた清定は「おやっ」と怪訝の面持ちでその鉢をみつめたまま未だ組んでいた腕を解こうともしません。
すると、何処からともなく、厳かな声が聞こえて来ました。
「米を呉れ、米を一俵呉れ、鉢に盛って呉れ、今夜の夕飯がないのだ」根が太腹清定はその言葉を押しやるように
「何だと!米が欲しい。そう云うお前は何処の誰だっ」と、大声で怒鳴るのでした。
濃いでも漕いでも、ちっとも進まない船脚に、業を焼いた舵子、船頭がその由を清定に告げようとして親柱の下まで来ると、この態です。乗組員一同は惘れて恐れて唯々様子如何と見守るばかりです。清定が
「冗談や粋興で運ぶ米ぢやねえぞ『米を呉れ』たあ、何てえ云いぐさだっ」と云い放った刹那、不思議にも船はぴたりと止まりました。そして海は一層物凄く荒れだす。暗澹たる空には風がごうごうとうなる。帆はピィピィと悲鳴を上げてまさに千切れそうだ。船は恰も錐でも揉むように、きりきりきりと激しい音を立てて廻転し出しました。全く生きながらの地獄です。
乗組員一同は餘の恐ろしさに、生きた心地のなく甲板の上に、へたへたと座りこんでしまいました。
「陸を見ながら難破してしもうのだろうか」と、ぶるぶる震えています。
その中に、風に混じって粉々として白いものが舞い落ちて来ました。
「わぁ!雪だっ」
「祟りだ!何かの祟りだっ」
「龍神様が怒り出したんだ」
「とうかして呉れっ。わあっ」
「助けて呉れっ」
怖ぢ怖れた乗組員たちは、口々に神様の名を呼びながら救いを求めて、悲鳴を上げるのでした。
「えいっ!ぢたばた騒ぐな。やいっ、野郎どもっ」と、慌てふためきうろたえ騒ぐ一同を、はったと睨んだ清定は、嶮しい表情でこう叫ぶと初めて親柱の根元を離れてすっくと立ち上がりました。
実は清定自身、船は将に非常な危機に直面していることを直覚しましたが、依然懐手の儘あたりを睥睨して突立っていました。その太々しくさえ見える面構へ、隆々と盛り上がった肩の力瘤、時々ぴくりと動く太い眉、如何様、世の常の商人には見られない贍力であります。
さしもに荒れ狂った風雲も止めば、雲と霧にかくれていた太陽が再びくわっと照り出し、見る見る陸地一帯の空が晴れ渡りました。
そのとき、外科医に立ちこめる濛々たる雲気を衝いて、空高く聳え立つ山が一同の眼を射ました。
見よ!山頂の巨巌の上を。
背面から雲間を洩れて射して来る陽光を、あたかも彌陀来迎の如く身に受けて、脇息による神々しい僧の姿を。
「あっ!沙彌様だっ。お山の沙彌様だっ」と乗組員一同は期せずして口走りました。
柏崎市と中頚城郡の境、日本海岸に崛起聳立する霊峰米山、さして高い山というではないが、平野にある山のこととて遠く海上からも望み得て、航海の目標になっている山である。
抑々此の米山は頗る清浄の地であって、昔は女人禁制の山で、当時は単にお山とだけ呼んでいましたが薬師垂跡の地として人々の尊信と崇敬を集めて今日に及んでいます。
即ちこの山の頂上には薬師堂がありまして、その本尊薬師佛は泰澄の策と伝えられる神品であります。
泰澄は越前麻生津の人で白鳳十一年に生まれ幼児からb\々加賀の白山に登って両親を驚かせる程の奇童でありました。後、仏門に帰依し、この山に来て住みました。この泰澄に奉仕する一人の沙彌があってこの沙彌は越前時代から泰澄の傍にいましたが、泰澄がこの山に来るに及んで、その沙彌もついて来たものであります。
この沙彌は元来能登の生まれで性来之の中に寝ることを好んだので臥行者と呼ばれて、大寳二年以来、泰澄の傍を離れず、此の山に住んでいるのでありました。
今、海上の住吉丸から乗組員一同が見たのはこの臥行者の姿であります。縷々として立ち上がる不断香の煙、五鈷を握った尊げなその姿が手にとるように見えたのです。
姿が尊いばかりでなく、この臥行者は実に仙術にすぐれた人でもありました。平素の食は草根や木の実、或は霞を食い、露をも吸っていましたが、時には山麓はもとより、数百里の遠隔地にも托鉢をしました。しかしその場合は自ら托鉢に立つことなく、常に鉢を飛ばせては托鉢をするのでした。そしてその鉢は最も多く浄水を汲むために豁川に飛んだのです。
独楽のようにぐるぐる廻転する鉢は自由自在に沙彌の言葉を載せて空中を飛行しました。鉢の飛行する瞬間は、如何なる晴天も、どんよりと曇り、霧の立ちこめるのが常で、木樵などは時々山中で不意にこの空模様に出逢いました。その度に彼らは
「ああ小山の沙彌様が鉢を飛ばしなされたな」
「水汲みかなーそれとも遠い町へお斎のご用かな」などと囁きあって瞬間居所に謹んでいるのでした。
こうして沙彌は永年泰澄に仕えて来ました。住吉丸の舵子船頭の脳裏に一瞬閃いたのはこの事であります。
まだ沙彌の姿を見たことのない船乗りたちにも、餘りにも明瞭に神々しく、絵で見る、後の行者その儘の姿に、それと直ちに直感したのでありますが、清定は心中何を思ってか依然懐手をしたまま凝然と親柱の根元に立ち続けているのです。
するとその時、一声大きく
「清定!斎米一俵寄謝せよ」
と空中に響き渡りました。清定は臥行者再度の乞ひにもかかわらず更に動ずる気色もありません。而もお山に何って、腕組みも解かない傲然たる態度で、大声をあげて
「沙彌さんに申します。孤の米は、これから越前の敦賀に運び、更に京都まで持って上がる米でござんす。そして尊い方々の供御にもなる米、折角ですが、お断りします。よそから沢山お求め願いましょう。」
と云い放つや、爛々たる眼光も鋭くぐっとお山を睨み返すのでした。
清定は米が惜しかったのです。数百千俵の積荷の中からたった一俵くらい何でもないことかも知れなかったのです。けれど折角巨利を得ようと、決死の覚悟で乗り出したこの荒海、而も万事が順調に進み、幸運に経過して来た今、無事にこの海さえ乗り切ったなら、この米一俵が黄金になる。そう考えると、たとえ神様にもせよ、一握りの米すら捧げる気にはどうしてもなれなかったのです。
それともう一つ別な理由がありました。
元来自分は商人であって船乗ではありません。だから荒くれた船頭どもを顎で使いこなすためには、何かしら彼らを屈伏せしめるだけのものを持っていなければならない。そして何かの機会に於いて、それを彼等に見せつけておかないと、今後とも万事につけて睨みが利かず、不合利だと思っている彼でしたから、今こそ彼にとってはこの上もない良い機会だと考えたのでした。
船乗稼業をする人達は、板子一枚下は地獄への道、それと知っての荒稼ですから、生命知らずの我武者羅共が揃っていますが、その反面彼等は到って迷信深いところを持っています。だからこそ、清定が「よしっ今こそ奴らに俺の腹の見せどころだ、一番野郎どもの度膽をでんぐり返してやろう。今後の見せしめにはもっけもない幸」とばかり、必要以上に力みかえった点もないではなかったのです。
さえ船は、ひどい動揺で今にもZ覆沈没しようとしたのに、今はその動揺も全く止まってしまったのですから、清定も事の意外に驚いたのですが、それでも内心の得意は隠せませんでした。
「やい、手前ら、何をぼやぼやしてるんだっ。行者も糞もあるもんか、今夜の船繋りが遅くなる。ぼろ沙彌奴が、つまらんことで手間をとらせやがった。・・・早く持ち場につかなえかよっ」と、先程の放言でどんな災を招くことかと、歯の根も合わず怖れおののいて、ぢいっと清定の顔を見詰めている船頭達に、大見得を切ったのです。
気を呑まれた船頭達は、清定のこの言葉で我にかえると、弾機に弾かれたように周章て、櫓を引き上げるやら、帆綱を張り直すやらして再び満帆に順風を受けた船は、辷るような早さで直江津を目指して進行をしました。
清定は「野郎共ものを見たか」と云わんばかりの得意さ、上機嫌で再び親柱の根元にどっかり腰を据えました。
見る見る山は遠ざかる。住吉丸は素破らしい速力で海上を矢のように突つ切って進んで行きました。
この分だと、途中で暇どった時間も十分に取り戻せるかも知れません。
今先までしょげかえっていた船頭どもも俄かに元気づいて、勇気百倍、銘々の持ち場で仕事に精を出しました。
清定は早い船脚に満足して「人間と云うものは一つ運が向いて来ると万事とんとん拍子に行くもんじゃ」と呟きながら、先刻沙彌と交わした問答を想い出してはいい心持ちになっていました。
するとその時、突然陽がすうっとかげって来ました。
「おやっ?」といぶかしく思う瞬間、陸の方からひらひらっと飛んで来たものがありました。
「あっ!鉢だ」
驚きの声と共に鉢はからりと音を立てて清定の膝元近くに舞い落ちました。
途端、空中に声がありました。
「清定!米をもらうぞっ」
「何にっ?」
「斎米をもろうぞ」
「おおう、野郎ども、皆んな来いっ、船底の米に気をつけろよ。ぼろくそ行者が性懲りもなく、又出て来やがったぞ」
こう叫びながら清定が立ち上がるより早く、鉢はすうっと空中に舞い上がりました。
清定の鋭い叫び声に驚いた船頭達が、慌てて甲板に集まって来た時には何時の間にどうして載せたものか、一俵の米俵をそっくりその儘鉢に載せて、さも軽々と彼らの頭上をぐるぐる円を描いて旋回飛行をしています。
一同が憫れて「あれよあれよ」と口々に叫びながら天を仰いでいる中を、鉢はすうっと陸地目指して飛び去りかけました。
ところがその時、流石の清定も、暫時息の根が止まる程驚くような自体が生じました。
船底の米倉は厳重に戸じまりがしてあるにもかかわらず、米俵は船底から次々と自然に飛び出して来ます。そうしてふわりふわりと空に浮くかと見る間もあらず、どんどん先頭の鉢の後に、一俵二俵三俵四俵五俵・・と続いて飛んでいきます。数限りない見事な米俵の空中飛行です。
米俵は飛ぶ。船は走る。何とも云えない光景であります。
流石は清定、乗組員一同がいつ迄も呆然自失しているのに引きかえすぐ我を取り戻すと性来の負けじ魂がむらむらと頭を抬げました。
先程たんかをきった手前もありましょうか「やいやいっ、野郎ども、馬鹿口をあけていつ迄も何を見ているんだ、早く船底への下り口の蓋でも閉めねえかっ」と怒鳴りました。
清定に銅鑼声をあびせられて、やっと船頭どもは、足並み乱して船底への下り口に殺到し「えっやらやっ」と掛声諸共重い扉をがらがらぴっしやりと閉めました。
閉め終わった船頭たちは期せずして空を仰ぎ見ましたが、何たる怪奇事ぞ、米俵は依然として見事な隊列をなして飛んで行きます。
剛腹の清定もすっかり参ってしまい、崩れるように親柱を背に凭りかかるとぢいっと唇を噛んで、下俯何いてしまいました。
やがて霧も晴れ眞赤な残照がぱあっと照りつける頃、漸く米の飛行もやみました。
清定は物の怪にとりつかれたような格好でふらふらと船艙に行ったかと思うと、一口「うむー」と低い呻きを残して倒れてしまいました。米はすっかり無くなって全くのがらん洞なのです。
こんな騒ぎの中で舵をとる人もなく、住吉丸は宵闇迫る海上を凡そ直江津とは方向も違うあらぬ方角へ矢を射るように進んで行くのでしたが、遂にその方向は誰も知らないのであります。
翌日、朝起きの人がふとお山を眺めて驚いたのですが、お山は一面の雪に覆われています。人々の怪しみ訝かったのも無理はありません。昨日はあんなによい天気で、昨夜だって雪の降る程の寒さでもなかったのに、而も背後に連なる三国山脈に属する山々の中には、もっと高い山が幾つもあるのに、海岸近くに崛起した一千米足らずのこの山に早くも初雪が降ったのであります。こんなことは遂ぞえまで一度もなかったことですから人々は「何かの悪い知らせかも知れない」と云う人もあれば中には「雪のお好きな臥行者様だもの、他の山より早いに何の不思議もないさ」などと分別らしく云う人もありましたが、間もなく誰云うとなく新潟の米商人清定海上受難の話が、伝って来てこれ等の噂は次のような噂となってはたと止んでしまいました。
「お山のお薬師様に斎米を惜しんで、酷い目に逢った人があるそうだ」
「新潟の米商人で清定とかいう人が、船一艘の米をそっくり召し上げられたそうだ」
「いやいや、そうぢゃない『お薬師様に上げろ』といったのはあの臥行者の沙彌様で、強慾を懲らそうと思召して米千俵お取り上げになったんだ」
「米千俵、流石の沙彌様も始末に苦心なさったそうぢゃ」
「それで、雪のお好きな沙彌様だ、早速米壱千俵すっかり雪にして峯から谷から、お降らしなされたんだ」
「へぇ!ぢゃ、あれはお米の雪かい」
「うん、あれはお米の山という訳さ」
こんな噂が専らでありました。
こうしたことからこのお山を「米山」と云うようになったのであります。
其の後九死に一生を得た清定は大いに前非を後悔してお山に詣り泰澄禅師にお詫びを致しますと、禅師は
「多分お前の強慾を懲らすためだ臥行者へ行って詫びたらどうぢゃ」と訓され、臥行者は清定の強慾を戒め、法力を以って全部の米を再び船艙に返してやったと云う話であります。