むかしむかし柏崎の鵜川川口、今は豊ヶ岡と呼ばれ旅館天京荘のあるあたりから、米山山腹までは大松小松が或るはこんもりと或るはまばらに、長く短く断続していて、何とも云えないよい景色でありました。その松林が磯近くに迫って漸く盡きようとする処に柏の樹が亭々と聳(そび)えていました。
沖へ出て魚を漁る漁夫達が一日の仕事を終え、重い魚籠を舟に乗せて我が家を指して艪を押す時に、この柏の木を目印るしにしたと云われます。
建長年間と申しますから今から七百年程前のことでありますが、源権之頭勝長と云う人がこの地に来て、その柏の木の近くに館を建てて住居しました。その当時のひとの歌に
柏の木しげれる蔭に住む人は
夏も暑さを知らで居りなん
とあるのを見ましても、其の岬の柏の風姿が偲ばれるのであります。
今の柏崎の地名はこの柏の木、柏の岬と云うところから生じたと云われています。
さてこの柏崎勝長公は領民のために色々と情をかけられたばかりでなく、深く佛教帰依された方で後年一宇を建て其処に風月を供として清い半生を送って居られました。今の香積寺は即ち勝長公の建立されたものだと云われています。
処が浮世の風はこの佛に捧ぐる人の世界にまで吹き荒んで来ました。勝長公は鎌倉に呼び出されて訴訟の庭に立たねばならない身となりました。因より覚えのないことでありますからいつかは正邪の判明する日は必ず来る筈でありましたが、夫は公に人の寿命をかさずかりそめめ病がもとで鎌倉で死んでしまわれたのであります。
父の供をして鎌倉に出ていました一子花若丸はあまりの情けなさに、故郷の母の許へは帰らずに、其の儘従者吉井小太郎と云うものに手紙を持たせて故郷へ帰らせ、自分は身を墨染の衣に包み無常の浮世を捨てて信濃の善光寺へ弟子入りしてしまいました。
花若丸の手紙を持った小太郎は長い旅を続けて柏崎に着きました。
「それ殿がお帰りになった」と喜んで奥方は小太郎を迎え入れましたが、奥方の前に手をついて小太郎は只サメザメと泣くばかりで一言も物を言わうとしないのであります。「さては花若丸の身の上に変わったことでもあったのか」と問えば小太郎は恐る恐る「花若丸君は御遁世遊ばされました」と答えました。「遁世と云えば父上さまにお叱りでも受けてか、それではなぜ追手をかけないのか」と奥方は小太郎をなじります。そこで初めて小太郎は勝長公の形見と花若丸の手紙を奥方にお目にかけました。
奥方の嘆きはどんなであったでしょう。夫には死に別れ我が子には生き別れ、此世ながらの地獄の責め苦に、只潜々と泣くより外すべもなかったのであります。
然しながら力と頼む夫には死なれ、可愛い子には別れた女の身の、泣くこと位で其の心の傷みの除かれよう筈もなく、悲しみは憂鬱となり、憂鬱は心の狂いとなり、遂に柏崎を立ち、野を越え山越えしてとうとう信州の善光寺に行き如来堂まで来まして我が子花若丸に唯の一目でも逢わせて給えと泣き狂うのでありました。
丁度そこへ今は佛につかえる身となり名も金蓮坊と変わった一子花若が通りかかり、さては我が母上であったかと、互いに変わり果てた今の姿に泣き崩れたと云う美しい主従の恩義、連綿たる夫婦間の情愛、絶ち難き親子間の因縁を含む涙の情史一篇は本願寺三代目覚如上人のよって作られたと云う謡曲「柏崎」で広く天下に知られている哀話であります。
其の後奥方も丈なす緑の髪を根本からプッツリと切り落として、ゆらぐ法燈の光に彌曹フ光明を仰ぎ、勤行の鐘の音に法心を堅めたとも申しますし、善光寺境内には今も猶この物語の史実を裏書する子持地蔵尊が詞られているとも聴きます。
現在の島町香積寺境内に寛保三年に建立された碑があり、金峰老杜多の墓誌名には次のように記してあります。「・・・噫公諱は勝長世々国の藩屏たり、朝に仕えては忠悃を致し・・・」