謡曲で知られているように今から七百年程前(?)に、柏崎勝長と云う徳の高い方が柏崎に住んでいました。
この方が鎌倉で病死されたことを聞いた勝長公の子供さんはなげき悲しんで幾月も寝ることが出来ませんでした。
或る日のこと、子供さん一通の手紙を書いて大久保にあった地蔵さんの手に結びつけて
「どうかこの手紙を冥土のお父さんに届けて下さい」
とお願いしたのです。
この願いをしてから数日たって、地蔵さんにお詣りに行きますと、地蔵さんの錫杖に一通の手紙が結びつけてありました。お子さんは、なに気なしにその手紙を取って開いて見ますと、不思議にもそれはまぎれもない父上勝長公の文でありました。
その後この地蔵さんは勝長公の穏居寺であった香積寺に移されましたが文使いの地蔵さんとして永く繁昌致しました。
むかし柏崎の近在に一人の百姓さんがおりました。お嫁さんを貰って何年も立ちますがどうしたことか子供が生まれません。何とかして子供が欲しいものと思って、いろいろと願がけをしましたところ、とうとう玉のような男の子が生まれました。
喜んだお百姓さんは、それこそ目の中に入れても痛くない程可愛がって育てて来ましたが、どうしたことかその子供は四つになっても五つになっても歩くことが出来ないのです。お百姓さんの悩みの種がまた一つ増した訳です。お百姓さん夫婦は日夜そのことを語り合っては悲しんでいました。
ところが或る夜、寝ている夫婦の枕元に地蔵さんが現れて「子供を歩くようにしてやる」と告げられたのです。
夫婦は喜んでそのことを村の人達に話しますと村人は「それは柏崎の立地蔵さんに違いない。」と云うことなので、百姓さん夫婦は早速子供を背負って毎日柏崎まで出て来てお地蔵さんをお詣りしたのであります。
そうすると不思議にも一週間目にその子供は歩けるようになりました。
百姓夫婦も村人も「これは立地蔵さんのご利益だ」と云ってよろこび合いました。
そうしたことがあってからと云うものは、腰の病気の人達の参詣で朝な夕な大変の賑わいとなりました。
この地蔵さんは今も猶柏崎市本町三丁目に昔のままの姿でまちの人達の信仰の対象となっております。
立地蔵さんと僅か一丁も離れないところ、柏崎公会堂の隣に「ねまり地蔵」と云うのがあります。
この地蔵さんは、xx前も前に、僧行基の手によって作られたものだと云われていますが、今から三百五六十年前に鯨波塔の輪に大陥没がありました。その時から柏崎へ移されたと伝えられます。
昔笠島と云う米山の麓の村人達が焚火や野菜などを背負って柏崎に売りに出るとき、この地蔵さんに荷物をのせて休み場所とする習慣がありました。
ところが雨や風で地蔵さんの下部が掘り下げられて穴があき、夜間そこを通る人達、特に按摩さんには大変迷惑になりましたので、附近の人達が砂をかけて埋めてしまいました。
ところが間もなく柏崎に大火がありまして附近一体が全焼してしまいましたので、これはてっきり地蔵さんの祟りであろう。と云うので今度は全体を掘り出して見ました。ところが驚いたことにこれはまた立派な薬師尊であり、左と右に日光佛、月光佛がありましたので、家運繁昌を祈る人々の信仰が一層深まって来ました。
ねまり地蔵や立地蔵、佛
佛に似合わぬ魚の売り買いなされます
と三階節にも唄われていますが、この辺一体を魚場と云い、魚屋さんのまちでありますのでこうした唄も出来た訳でしょうが、きれいな芸妓さんが、暗い常夜燈のもとで「おみくぢ」をひいている姿は、何とも
云えない柏崎情緒の一つであります。
柏崎市には寺号を持つ寺が四十七寺ありますが、大久保の西光寺と云えば浄土宗の寺として、風光のよい点などで有名であります。その寺の棲門の外に石の地蔵さんがあります。俗に「えぼ地蔵」と呼んでいます。疣の出来た人がこの地蔵さんに願をかけると癒してくださるそうであります。
文使いの地蔵さんに文を託したのは勝長公のお子供と云い伝えられますが、本願寺三代目覚如上人によって作られたと云われる謡曲「柏崎」では勝長公の一子花若は家士小太郎と共に勝長公のお伴をして鎌倉に出たことになっています。そうした事柄の眞否を穿鑿するのは本書の目的ではありませんので、云い伝えのまま載せました。