むかし越後の長岡に稲垣と云う人がありました。鑓の名人でもあり、稲作りの大家でも有りましたが、性質は大変乱暴の人でありました。
ある年、毎日のように降り続く大雨に河は氾濫して大洪水になり、米は大変な不作になりました。稲垣さんはがっかりしてやけ酒ばかり呑んでいましたので、とうとう身体をいためてヒョッコと死んでしまいました。
その夜のこと、稲垣さんのお母さんが寝ている枕元に青白い顔をした一人の男が立っています。そうして、
「俺は今、閻魔大王とはげしい戦いをして来たのだ、秘蔵の鑓で大王の胸元をぐっとさしたら、大王の奴、血潮のほとばしる胸元をおさえながら韋駄天のように逃げて行ってしまった。」
と告げるのです。
お母さんは不思議の夢とは思いましたが、五臓の疲れからであろうとその儘またねむりを続けました。
朝になって目が覚めると、昨夜の夢がなんとなく気になります。若しやと思って稲垣家伝来の鑓を取り出して見ましたところが、驚くではありませんか、槍には人を刺した血潮がべっとりとついているのです。越後で閻魔さんと云えば、今も昔も柏崎の閻魔さんが一番有名であります。
さてはと云うので使いのものを柏崎に走らせて見ますと、果たせるかな閻魔堂の入り口のところに赤い血がたれています。その血の跟を追うて行きますと閻魔大王の胸のところで止まっていました。
稲垣さんのお母さんはびっくりして早速柏崎人来て閻魔さんに心からのお詫びをしたのですが、閻魔さんは稲垣さんの稲作りの功績がありますので、大してとがめずに許してやったそうです。
柏崎の閻魔堂は本町七丁目にありまして、その本尊は運慶の作だとも云われていますが、田植えも終わり換算になった農家の人達はその年の稲作の豊穣を祈りにこの閻魔さんをお詣りに出て来ます。
柏崎は昔、縮布の行商をする人が沢山ありましたし、またこの商売で成功した人も少なくありません。六月中旬と云えばその人達も丁度行商から帰って来る頃ですから、両者が相寄って一つの祝いをこの閻魔堂でやるようになり、それから何百年もこの祭りは続いています。
柏崎市の閻魔市と云えば今でも全国的に有名で毎年六月十三日から二十日まで行われる祭壇には全国の露天商や興行師が入り込みまして大変な賑わいを呈します。
まちの人も近郷の人も、この祭りには百姓といわず町人といわず、収入の多い人も少ない人も一様に粽(ちまき)と笹だんごを作って、自分の家で作ったものを他家に贈り、他家で作ったものを貰ったりして互いに慶びをわけ合う習慣になっています。
祭礼は堂宇の中で護摩を焚き、ピチピチと赤く燃えるその側らで、読経とともに大勢の人々が、手を合わせてその年の米の豊作を祈ります。
米どころと云われる新潟県のお百姓さん、そのお百姓さんをはげます一般町人の方々の眞の姿がうかがわれて思わず目頭が熱くなるように感じるのであります。