延暦年中のことと云いますから、今から数えて千二百年程前の話であります。
その頃は今の柏崎市及び刈羽郡の辺りを左水の里と云いました。当時上条郷に関矢の喜右衛門と云う豪族がありました。
或る日の夕方、人品もそう卑しくない、一人の童子が、何処からともなく飄然としてあらわれ、喜右衛門さんの宅を訪れてどんな仕事でもよいから使って貰いたいと頼みました。
眞当のことを言うと喜右衛門さんは餘り気が進まなかったのですが、その童子は目鼻立ちもよいし、挨拶振りなども仲々立派ではあるし、まだ年歯も行かない者の折角の頼みでもあるので、まあよかろうとその儘使ってやることとしました。
童子は自ら房太郎と名乗っておりましたが、家内の誰彼にも如才なく振舞いますので、皆が坊太郎、坊太郎と云って可愛がりました。
こんな具合で坊太郎が喜右衛門の家に来てから何ごともなく五、六年は過ぎたのですが、どうしたことかその頃から関矢の地一帯に恐ろしい噂が立ち初めました。
「合の原を夜は通るなよ、今日も旅人が殺されたぞ!」
上條から四、五丁離れた処の合の原では、瀕々として旅人が殺され、そうしてその死骸は鬼でも食ってしまうのか影も形も残らないと云うのです。こうしたさなかに、誰云うとなく夜になると坊太郎がいなくなると云い出しました。まさかとは思いましたが喜右衛門さんが或る夜ひそかに坊太郎の寝床をのぞいて見ると坊太郎はいません。而もそうした日の夜に限って旅人が殺されているのです。「矢っ張り坊太郎の仕業だなあ」と思えば喜右衛門さんも恐ろしくなって、坊太郎を家から追い出しました。その後は坊太郎は酢の沢と云うところに住みついて、毎夜柏崎に出没しては殺生を働く模様でありました。隅々その頃、天台宗の偉いお坊さんの伝教大師と云う方が北陸化導の途中、関矢に一夜の宿をとられたのです。それは眞夏の蒸暑い晩でありました。大師は眠るともなくうつらうつらしておりますと、何処からともなく一陣のなまぐさい腥い(生臭い)風が吹いてきました。
「おや変だぞ」と思って静かに眼を開いてご覧になると、枕元に大刀を提げた一人の魔物が立って居りました。大師が眼を覚まされたことに気づいた魔物はやおらに大刀を打ち下ろし、将に大師の首に触れようとする一刹、大師は身を替わし、枕元においてあった如意を取るが早いか魔物の腕をハッしとうたれますと魔物の腕はコロリとそこへ打ち落とされました。魔物は急いで自分の腕を拾うとあわてて何処かへ姿を消してしまいました。 朝になって喜右衛門さんが起きて見ると、結婚は尚腥く此方彼方がアケに染まり、その跡は喜右衛門さんの宅から裏山へと続いております。 驚いた喜右衛門さんは、家の者達にそのことを大師に告げるよう命じると共に、自分は恐る恐る血の跡を追って行きますと、酢の沢の裏山の一つの岩窟に辿りつきました。
喜右衛門さんが恐ろしさでブルブル震えながらも大声をあげて「坊太郎!坊太郎!」と呼びますと、間もなく岩窟の扉は中から勢いよく開かれ満身血みどろになった坊太郎が悪魔の姿で喜右衛門さんをにらみつけています。
「坊太郎お前は、お前は魔者だったのか」となげき罵る喜右衛門さんの言葉が云い終わらないうちに、房太郎は手に持った刀で喜右衛門さんの左目を抉りました。 そこへ一足遅れに到着した大師は、直ちに法の力で房太郎を捕え、身を三つに別けて一体を左水野田の堺山に埋め、そこに一宇左建てて房太郎の冥福を祈りました。 こんなことが有りまして、大師は喜右衛門さんのところで暫く滞在されましたが、その滞在中に三体の毘沙門大王の尊像を彫刻して、喜右衛門さんに与え、この尊像を信仰すると、悪鬼外道は退散し、身も心も安穏で、五穀は豊穣になると告げられましたので、喜右衛門さんは之を深く尊信しました。 今でも柏崎市本町五丁目に常福寺と云う禅寺があります。毎年三月三日には近郷近在の青年達が多数集って、裸祭り撒與祭を盛大に行っています。宵祭りの二日夜は前夜祭として全国的にも珍しいと云われる腕相撲大会を開き、県内各地の青年による熱戦が繰りひろげられます。 この常福寺は喜右衛門さんが建てたものですが、後になって柏崎市の大久保と云うところに移り、更に只今のところに移ったものであります。 常福寺の毘沙門さんを信仰すれば五穀が豊穣になると云うので農家の人達は深く信仰していますが、又悪鬼をう拂う利益の大きいので昔は信仰する武士も多く、殊に上杉謙信公などは大変深く信仰されまして、特に上條城主上條彌五郎と云う方に命じて出陣の度にお守札を弓袋に納めて背負わせ、戦場に出て常勝軍のなをほしいままにしたと云われtおります。