むかしむかし鯨波に、玉屋と云う海産物屋さんがありました。 そこの主人は代々徳兵衛と名乗っておりましたが、どの人も揃って働き手で、大勢の番頭さんや小僧さん達に情け深く目をかけて来ましたので商売は大変繁昌し、身代はメキメキと太り、白壁の土蔵は幾戸前もずらりと並んで、この界隈切っての大金持ちとなりました。
この話は何代目の徳兵衛さんの時のことか、はっきりとした時代はわかりませんが、兎に角玉屋の十何代と続いた或る徳兵衛さんお代の話であります。
花のように美しい奥さんを迎え、玉のような子も出来、何の不足もなく暮らしておりましたが、徳兵衛さんが四十才を越した頃、フトしたことから金蔵の中が心配になり出しました。
泥棒が金蔵を破りはしないだろうか、強盗が押し込むんではなかろうかと、夜も昼も心配で心配で心の休まる暇もありません。
「これぢゃ、こっちの体がまいってしまいそうだ、何とかよい工夫はないだろうか」と色々考え抜いた揚句、「他人の知らない処へこの金を匿すのが一番よかろう」と云うので、或晩、家人の浪静まるのを待って沢山の小判を大きな甕に入れて、コッソリと持ち出し、裏の竹薮の中の椿の木の根本を深く深く掘り下げて、そこへ埋めてしまいました。
埋め終わると徳兵衛さんはホット一息ついて、 「おいおい椿よ!椿よ!この事はお前とおれの外誰も知らんのだよ。若し、」この金がどっかへ行ったなら、それはお前のせいだぞ。いいかいわかったかい」 と冗談まじりの独言を言いながら、もと通りに土をならして、これで先ず安心と家へ這入って寝てしまいましたが、翌朝になると、もうソロソロ埋めたお金が心配になり始めました。 「昨夕お金を埋めた時に誰か見ていはしなかったろうか、若し見ていたとすれば、かめごとスッカリ掘り出されてしまったんぢゃないだろうか」 と、心配しながらコッソリ竹薮へ行って見ましたが、椿の木の根本は別に掘り返された様子もありません。安心して家に帰ってきましたがすぐ又心配になって竹薮へ行って見るのでした。 こんな具合で昼間のうちは何度も何度も竹薮を見廻りますし、夜になると寝床の中でも心配で心配で眠れません。こうした日が幾日も続いているうちに徳兵衛さんはとうとう病気になってしまいました。 今で云う神経衰弱でしょうか、日の目を拝むとクラクラとめまいがする。又人に逢うのが何より怖い。人と話をするのがとても嫌だ。と云った具合で顔はだんだん蒼ざめて来るし、進退は痩せ衰えて来て、朝から寝床で布団をスッポリ被って寝ていると云う始末である。 そこで家の者は勿論、親戚や番頭さんまでもいろいろ心配しまして、 「まあ一時家を離れて湯治にでも出掛けてみては」 と云うことになって、徳兵衛さんもその気になり下男の権助をお供にして駕籠に乗って頚城の松之山(一説には甲賀の山中温泉)の湯へやって来ました。
家を離れて温泉につかって見ると、なるほどみんなの云うように、一日一日と気分のよくなるのが目に見えて来ましたから、徳兵衛さんは大よろこびで 「この分だと、あと二週間もお湯につかったらスッカリ元の体になれるわい」 と、下男の権助を相手に湯治を続けて居りました。
或る晩のこと、他人が寝静まった頃、独りお湯につかってよい気持ちで手足を伸ばしていると、とのなりの湯屋の三助が流し湯を洗いながら、何やらよい声でうたを歌っています。何の気なしにその唄の文句を聞きますと、徳兵衛さんは飛びあがる程たまげてしまいました。ロクロク体も拭かずに大急ぎで自分の部屋へ駆け込んで下男をゆすぶり起こし 「おい権助、大変だ大変だ、三助が『越後鯨波玉屋の椿、枝は白銀、葉は黄金』と歌っているのが、ありゃ一体どうした事ぢゃ」 とせき込んで云うので、権助も不思議に想いながらも 「いや旦那様!それは玉屋のご繁昌を云うたもんですよ、他に訳なんかあるもんですか」と事もなげに云うのでした。 が然し、徳兵衛さんはもう坐ても立ってもおられません。夜の明けるのを待って、早駕籠を雇って鯨波へ戻ってきました。
さて駕籠が家へ着くと、下りるのももどかしく徳兵衛さんは、えっけに取られて見ている家の人達に会釈する餘裕もなく、急いで竹薮の中へ走り込みました。 夕日に照りかえり、椿の枝はキラキラと銀色に、葉は見事な黄金色に輝いて神々しい程であります。
徳兵衛さんは鍬を取り寄せて自分で、息もつかづにドンドンと椿の根元を掘りはじめましたが、見る見る汗だくになった徳兵衛さんにお顔は眞蒼に変じて行きました。 それもその筈です。いくら掘っても出て来るものは石ころや土ばかり、徳兵衛さんは掘上げた槌の上にどっかと腰を下して 「おお、椿の精よ!お前はみんな黄金の精を吸いとってしまった!」 と口ずさみながら、崩れるように倒れてその儘気を失ってしまいました。
家人の看病で一旦息を吹き返した徳兵衛さんは全く狂人のようになって、あらぬ事を口走っては家族の人達に涙をしぼらせていましたが、或る日、 「ああ、あそこに小判が!、小判が!」 と嬉しそうに叫びながら磯伝えに走り廻っていましたが、とうとう夕日に輝く金波銀波の海へ、自ら身を投じて死んでしまいました。
鯨波の海水浴場に鬼穴と云う有名な海蝕洞があります。そのすぐうしろに、上の方が平らになった広い岩があります。 土地の人はそこを玉屋屋敷と呼んでいますが、暑い暑い夏の盛りに繁昌を極めた玉屋大儘が豪華な涼座敷を造って、宴会などをやったところだと云われています。 今でもそこへは海水浴場からも、すぐ真上の公園からも気楽に行ききが出来るようになっていまして、沢山の海水浴やキャンプの客が行楽を楽しんでいます。
「玉屋の椿」は、日本の伝説の中でも特色のあるものと見えまして、高木敏雄氏の「日本伝説集」をはじめとして、伝説の本でこの話を取り扱わないものは一つも無いと云ってもよい位有名であります。
郷土研究家田村愛之助氏は「玉屋」に就いて次のように云っております。 今から二百七・八十年位前のことを調べてみますと、その頃の玉屋の身代は部落でも図抜けて居ったように思われます。代々孫九郎、六郎左衛門、仙之助等を通称として来ていました。明示七年に八十才で死んだ六郎左衛門は玄雪と号し、学問もあったと思われ、手蹟を見るになかなか見事であります。
文化の頃の六郎左衛門は下問と号し「鯨波八詠」の詩が残っています。八詠と申しますのは「鯨波旅館、魅穴夕照、塔輪秋月、河内落雁、龍泉晩鐘、妙智暁天、神明奏楽、辨天帰帆」の八題でありまして、またこの人の和歌に
位山登る岩根のうごきなく
御代はかぎらず幾千とせとも
(松平越中守の仕官を賀す)
と云うのがあります。
伝説には此の玉屋と云うものは、とうの昔にこの土地に跡が絶えているように書いてあるものがありましが、事実はそうでなく、海岸に涼座敷などを造り金銀を湯水のように使うと云うようなことを幾代か前の人がやりました。それですから今の玉屋は昔のような大尽ではないと云うまでのことであります。
「仰も当家の祖、姓を案ずるに全く藤氏の別姓にて佐州の藤氏を以て佐藤の姓と為す」とあって、自ら佐藤を佐東とも書いています。(佐渡に因縁があるというのが面白いではありませんか)思うに先祖は佐藤通いの商売か何かをやって大いに儲けた。今で云う成金であったのだかも知れません。